書くけど忘れること

つまり、忘れるから書くけど、書くから忘れるんだよなあ、つまり

飽和金魚水

 あ、待っててね、お水。お水持ってくるから——。
 
 はい、(と彼女は気泡混じりの、旅先で買うなり作るなりしたであろうグラスに水を注ぎ、テーブルの上に置いた)。

 うちに来る途中で歩道橋渡ったでしょ、いなかった? 毛虫。あの歩道橋、隣に木があって、あれ(示し合わせたように梅と松ばかりのこのあたりでは珍しい、と書き、消してしまった)桜だから。もうじき手すりに毛虫がわくんだけど、いなかった? 暗くてよくみえなかっただけかもよ。ほかには見てない? 金魚売りとか。そっか(なあんだ)。こないだの夜通った時いたんだよ、金魚売り。金曜。いつものところで別れたあと歩道橋登りきって、(それだけでなんだかひどく疲れてしまい)、車多いなって、欄干につかまって下見てたの(そして、私は見られもしていた)。風が強い夜だったから(うつむいた先で髪はゆらゆら揺れて、ヘッドライトはその緞帳をくぐり突っ走っていく)(いつまでもそうしていてよかったんだけど、ただ立ってるのが辛くなって)、帰ろうと、向こう側に渡っちゃおうと思ったら、降りるほうの突き当たり、そこにぽつんと、(おうとつも質感もなく、裂け目のような)影が。(でもきちんとわかった、それは人が、金魚売りが座り込んでるだけだって。毎日通ってたはずなのに、桜はいつの間にかめらめらとする街灯を飲み込んで、花弁一枚一枚がまるで)……熾る体を翼でかくした天使の話はきいたことある? (あれは桜なんかじゃなかった。街灯は街灯なんかじゃなかった。私のことも、その人のことも、あるいは何も、照らしていてはくれなかった)。嫌だけどそこ通んないと帰れないから、できるだけ端に寄って一息にやりすごそうとしたんだよね。横を通るときに(まつ毛の先で、その人の足の間に挟まれた)月が光った。(水を湛えた桶の黒い水面に丸い月がすっかり映っていて)、でも暗くてほかは何もわからなかった(月の上に桜の花びらが一枚ぽっち浮いて、揺れもしなかった。)(月中蟾蜍というのは全くのでたらめで、月には蟾蜍などおらず、兎は死に、水の張られていない海の名はネットニュースで久しぶりに知人の名前を見た時のような感情を呼び起こす)。あの月にはカエルもウサギもいないみたいだったよ、ただ散った桜の花びらが浮いてた、小汚いかんじで(蟾蜍でも兎でもなくって、羽が一枚)。うん、で、通り過ぎて、一段目の階段を降りようとしたところで呼び止められたの、(お嬢さん、って)。振り返ったら(お嬢さん、って!)手招きしてんの。ねえ、水飲まないの?(あっ)ううん、はじめてだよ(飲んだ)、そんなの(飲んだ)。

 いつもなら絶対に、言うことなんか聞いてあげないよ。金魚売りの言うことなんて。でもその日は疲れてて、(どうでもよかったし)(気まずくて)、でも何かないかなって思ってたし(それはその夜を、文章への変換に耐えうる強度にする)(気の利いた話題にできるような何かが)。正面にしゃがんで覗き込んでも影のような人、(声も、音というより言葉の意味だけが残るような)。でも手は、手は、皺とたこと、きずのいった手。縁日の金魚すくいみたいなビニル袋に桶の水をひと掬い入れて、いいものあげる、って。(あ、)やったことある? 金魚すくい。(見えた、橋の上に立つ彼女が)街灯にすかしてみても真っ黒だったよ。(落ちる、落ちる、)(さらさらした瀝青のような)真っ黒な水。(揺れる水草、のように漂うかぐろい髪が)ビニル袋の内側に花弁がへばりついてて、(そこだけ塗り残したみたいに)(顔の上にビニル袋を持ち上げて、ためつすがめつし、鼻先でそっと押してみた。空気は乾燥していて、おれはその夜、まっ赤な鼻血をだした)(乾燥した空気はありとあらゆる粘膜からぬめりを奪い、その痛みは人に、5年前でも10年前でも、同じく干からびた空気を嗅いだ時のことを思い出させる)。家に帰ったら水をグラスに移して、それに毎日ささやきな、って。ささやくって、いろいろだよ、(辛かったことも、許せなかったことも、人に言えないようなことも)ささやいて(おれは水にささやいて、聞かせた)(二人にささやかせた。全てをささやかせた、ということにした。二人の会話から、あるいは二人が、金魚のようにあざやかにすりよけてきたものについて)、そしたらだんだん水が透明になって、中にいる金魚が見えるようになるから、って。
 黒い出目金だよ、って。

 水って、あんたが飲んだそれのことだよ、(胃の中ではねる)。
 (ね、いた?金魚)

 ぴち。