書くけど忘れること

つまり、忘れるから書くけど、書くから忘れるんだよなあ、つまり

精神的マティーニの法則

 彼女は月に一度、コンテンポラリーダンサーになる暮らしをしている。
 音楽も、あらかじめ決まっている振り付けも、物語もない。ただ薬をのみ、血を垂れ流しながら、苦痛を紛らわせることを目的に、マンションの一室で気絶するまで踊り狂う。パフォーマンスは大体1日で終わり、28日から30日周期で再びその日は訪れる。
 彼女は今日も一生懸命コンテンポラリーダンスに励み、痛みを忘れることだけを考えながらあらゆるポーズを試みていた。それでもさざ波のような腹痛はまったく良くならない。時折血が流れる感覚がして、体の動きにあわせてたゆむワンピースが襟口から生臭く汗にしめった息を吐き出す。ここ数回のパフォーマンスで定番になった「太ももの内側を掴んで思いっきり揺する動き」を行うために鼠蹊部に近い部分に触れてみると異様に冷たくなっていた。クーラーだ、体が冷えきっている!と右脇腹から少し離れたところに落ちていたリモコンを掴み、その時急に苛烈さが増した痛みに呻きながらスイッチを切った。躍動する身体に冷房は厳禁なのだ。
 ベッドにも上がれず、南アルプスの天然水2lとトイレとその間らへんの床を這いずるように、または立ち上がって壁に体を押し付けるように移動して、寄せては返すどころか寄せるばかりの腹痛の波に耐えた。首元に髪の毛を張り付かせているのと同じだけの塩っぽい汗がジェラピケの白いルームウェア(母親のお下がり)に吸われているに違いなかった。
 今回はいつもより厳しいかもしれない、と彼女は南アルプスの天然水2lにそのまま口をつけてアスリートっぽく口元を拭いながら思ったが、極限状態においてこれ以上ないほど純粋に巡らされる腹部の痛みについての思索は毎回極彩色の景色を見せるので、たとえ自分の過去であったとしても、何かと比較できる代物ではなくなっていた。
 カーペットにうつぶせになり片頬をむにょりとさせた状態でスマホを操作する。とりあえずYoutubeでも見てたら手っ取り早く気絶までの時間が潰せるんじゃないか、とスクロールしていると、指が滑って全く意図しなかった動画が再生された。正直何をみる気もしなかったので、レイシストの演説以外の動画なら、彼女はもう、何だってよかった。
 動画の中では酸素ボンベを背負ったダイバーが海の底へと引き摺り込まれていくところだった。ダイバーは水の中でめちゃくちゃに踠いていたかと思うと、にわかに左手でレギュレーターをカポッと口から外した。唇の間から泡がぷかぷかと出ている。こんな状況なのに。
「ダウンカレントに巻き込まれたとして、君ならどうする? 1、流れに身を任せる 2、逆らって泳ぐ 3、沖に向かって泳ぐ」
 彼女は鋭い痛みに耐えきれずうつぶせから仰向けになり、首の力だけでブリッジをした姿勢で聞き返した。
「何?ダウンカレントって」
 ダイバーは海の底へと落ちていく。
サンゴ礁の崖沿いで一時的に発生する下向きに進む強い流れだよ。1、流れに身を任せる 2、逆らって泳ぐ 3、沖に向かって泳ぐ!」
「知るか……」
「答えなよ。1でいい?」
 彼女は頷いた。もう、何だってよかった。レイシストの演説動画以外なら。
「1を選んだ君は死にます! 」
ダイバーは大きく口を開いた。顔に走った亀裂の端から一匹の老いた赤い蟹が這い出し、そのまま頬ぼねを伝って目尻の辺りまで移動すると、腕でゴーグルをこじ開け隙間から内側へと潜り込み、息絶えた。蟹はダイバーの左目を終の棲家と決めたのだ。
「時速3キロの流れの中に引き込まれると60秒で50m以上沈みます。3m沈むごとに30kPaずつ体への水圧は増して、肺とボンベの空気も圧縮されるから……長くは持ちません、意識も、理性も」
 彼女は突き上げるような鈍痛を感じて、ブリッジのままさらにのけぞった。ダイバーはレギュレーターから出る泡をぼんやりと見ている。
「"マティーニの法則”ってやつ。いわゆる窒素酔いで……血中の窒素ガスが増えるせいで、判断力が著しく低下するので、具体的に言うと普段の3割増でアホになる」
 彼女は痛みのせいで喋ることはできなかったが、もしできたなら、いまの私みたいに? と言うところだった。いまの私みたいに? 夢か現か、自分はいま、もんどりをうって痛みに耐えることしかできないのだから、もうこれが生きるたつきで間違いないのだし、目の前でぺちゃくちゃおしゃべりなダイバーが死んでいくのを見て、ああ、痛みは死を乗り越えたりできないんだ、と思っている、私みたいに?
「君のそれは月経由来の貧血でしょ。でもまあ、酸素が足りてないってことに変わりはないし、そうだね」
 ブリッジの角度をさらに深めると、今日ずっと踊り続けていて初めて、痛みの引き潮を感じた。
「僕と君はいま同程度……3割増でアホになってる同士だから、奇跡的に画面越しの会話が成立してるんだよ。3割増しでアホになっている者にしか到達できない精神的な領域なんだ、"マティーニの法則"というのは」
 ダイバーは片手でレギュレーターをグルグルとぶん回している。くわえとけよ、と彼女は思った。おまえいま緊急事態なんだぞ。このままだと絶対に死ぬんだぞ。自分が部屋でのたうちまわっている間に、苦しみもせず死のうとしているダイバーの左目で、蟹の屍がちらちらと揺れている。
 彼女はダイバーの話をろくすっぽ聞いていなかった。レイシストの演説動画以外ならもう何でもいいというのは、裏返せば、レイシストの演説動画くらいしか彼女の気をひくことはできない、ということでもあるから。しかし、苦痛の合間を塗ってなんとも間抜けで似非科学っぽい法則の名前だけが耳に届いた。
「”マティーニの法則”って、どうしてもマティーニじゃないとダメなの? 私カシオレだろうがビールだろうがマルガリータだろうが、飲めば今みたいに貧血のアホになるんだけど?」
「人間をアホにするアルコールなら何だっていいよ。スピリタスだろうがストゼロだろうが消毒液だろうが」
 ダウンカレントに飲み込まれたダイバーは永遠に落ち続けていた。彼の言う通りなら、彼の体はもう500メートルの深海に持っていかれてしまっている。痛みが退いていくのを感じて余裕がでてきた彼女は、このダイバーの運命が心配になりはじめた。
「どうしたらおまえは助かるわけ? スマホ逆さまにしてあげようか?」
「いや広告でよく見るアプリゲームじゃないけど柔軟な考えだ大切にしよう」
 二人の間に沈黙が流れた。
「もしかして次に再生する動画、ぺこぱが番組でコントしてるやつの違法アップロードだったりする?」
 ダイバーは手でちょっとストップのジェスチャーをし、レギュレーターをしっかりとくわえた。
「それって、私が昨日アルコ&ピースのラジオを違法アップロードしたやつ見ちゃったせい?」
 ダイバーはゆっくりとうなずいた。その通りだ。マウスピースの間から泡と共に吐き出されるので非常に分かりにくかったが、彼はこう続けた。
「最初の問いの正解は、まあ君はいまこの動画を最後まで見てるんだけど、3の”沖に向かって泳ぐ”なんだ。僕はこれで助かるよ」
 ダイバーの左目の赤い蟹が、光のない深海で煌々と輝いていた。


 起きると凪のような午後だった。カーテンの隙間から見える空の色は、太陽が夏の午後にあるべき穏やかさを取り戻したことを証明していた(ちなみにこの日の午前中は異邦人の中で青年に人殺しをさせたのと全く同じ太陽が登っていた)。
 貧血が治まって間もないせいか、彼女はクーラーを消した部屋でも汗をかいておらず、かといって涼しいとも感じなかった。そのままゆっくりと起き上がってトイレをすませ、帰りに全身鏡を見た。乱れた黒髪はその間から覗く血色を失った顔をさらに青く引き立て、白いロングワンピースのてろんとした質感がさらに病的にさせていた。二人は向き合って午睡明けの眠たげな目で見つめ合いながら、吸血鬼ってこんな感じなんだ! と思ったが、それは全く見当違いで、吸血鬼のように完全に死んでしまった体とは似ても似つかない、生き物としての活動を最低限に抑えてただただ回復を待つだけの体が、フローリングの上に裸足でぽつねんと立っている。
 コンテンポラリーダンサーから吸血鬼になり、彼女がやっと彼女に戻れるのは、窓を開けると涼しい風が入ってきて夏の終わりを知った時でも、夜になって暑さがぶり返し何の躊躇もなくクーラーをつけた時でもなく、部屋着に付着した血液を一生懸命洗い落としている翌日の朝だった。