てりあか

わたしの自分のためのおくすり

週記(7.6~7.12)

少し前に『セックスエデュケーション』を2シーズン分一息に見た。私はドラマがすごく苦手なので、たまにこういう面白い作品と出会うと一気に見てしまう。
見ている間にいくつか読み返したくなった本ができたので、図書館に行ったり、本棚を探ったりして、手元にあったヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』をすごく久しぶりに読み返してみた。

これを読みたくなったのはドラマに自分だけの家は持っているのに、プライバシーと自分の時間を完全に守ってくれる部屋はない女の子が出てきて、しかも彼女がヴァージニア・ウルフジュンパ・ラヒリ、あとはエミリー・ブロンテとかジェーン・オースティンはもちろん、本をよく読む、知識に貪欲なとてもかっこいい人だったからだ。すごくいい。友達になりたい。

数年前、一人で暮らすようになったティーンの私は図書館で見つけた『自分だけの部屋』という字の並びにどうしようもなく惹かれた(もちろん、本の内容はそんなセンチなものではない)。
あの時は自分が一人ぼっちであること、ほんとに混じり気のない寂しさについてずっと悩んでいた。今も大して変わらない。
それでも、何が悲しいでもなく泣いてしまう自分だけの1日の終わりをみんな持っていると気づかせてくれたのは、間違いなくウルフに連なり、ウルフから続いていく彼女たちの作品だった。
この子も静かな部屋のベッドで、遠くで聞こえるサイレンの音にちょっとだけ集中力を遮られながら、私の手元にあるのと同じ本を読んだのかもしれないし、いつか読むのかもしれない。
そういう想像は電車の隣の席に居合わせた人と画面の中の人と関係なく適用されるべきだと思う。

あとは『ハーフオブイット』もそうだったけど、他人のレポートを代筆して稼ぐタイプの女の子は実存主義について語るなあというちょっとした発見があった。英語圏のクールな女の子の必修科目なんだろうか。

ここ数日で東京の感染者数が爆上がりしているが、私も含めて、以前のようなまじめさがなくなっている。
誰と会うかも偏りが出てきていて、(社会人なら)職場もリモート中で、一人暮らしで、すこぶる健康体という”パーフェクト”な子を選んで遊ぶようになってしまった。

もしかすると最近自分は人が一人でいることにこだわり過ぎているのかもしれない。

 

 




週記(6.22~6.29)

・Disclosure:Trans Lives on Screen

今月はプライド月間だった。

自分が最近あまり外に出なくなったのもあるけれど、虹は街中よりSNSを満たし、こぼれ落ち、Netflixでは「学べる」作品がオーガナイズされていた。

「Disclosure:Trans Lives on Screen」もその中にあった一本。

見終わってfilmarksのコメント欄を見てみると「勉強になった」という感想が目立った。こういうことってよくある。

ドキュメンタリー作品や書籍、ネット記事を読んで「勉強になりました!」みたいな顔をする人もいる。

その人が学べたというのならそうなんだろうな。何かを見て、人にしっかり説明してもらって、納得できた時に「勉強になったなあ」と思うのもわかる。

それでももやっとしてしまうのは、私は人に見える形をとるまでに経由してきた部分、まだ言語化も映像化もされてない(あるいは、できない)部分を見ないまま知ったつもりになりたくないし、経験した/経験してないという自分の立場をしっかり認識して、そこから対象と自分の関係性について考えるのが大事だと思っているからかもしれない。

それに、「は〜勉強になりました」ってスタンスもどうなんだろう?

今まで視界に入ってこなかった、考えたこともなかったもの、今までなんとなく感じてたモヤモヤがうまいこと形になった破片に触れて、「勉強」したことになるのだろうか。

もっと的確な言葉なら、「今回は目を背けませんでした」、とか、言えて「私は知りました」とかなんじゃないだろうか。

いろいろ言ってしまったが、それでも、「なにか」と自分の関係を考える入り口は大切だ。

でもそれ以上に、当事者と言われる人たちにとって、自分の属性がメディアでどう扱われるかは重要なんじゃないのかなあ。

「Disclosure:Trans Lives on Screen」では自分の性が作品でどう扱われてきたかについてトランスジェンダーの役者とか映画監督とかが自分の口で話す(これもすごく大事。誰かに言葉を奪われることなく自分で、自分の言葉で話せるということ)。

その中にあった、「メディアの中に自分の説明の仕方を探してしまう」という言葉について、ここ最近ずっと考えている。

ジェンダーを指す言葉は日々増えつつある。自分にぴったりのラベルをみんな探しているからだ。

ジェンダーは固定されたものでなく流動的だから、グラデーションのどこに今の自分は立っているのか、そして自分の足下のグラデーションがなんと呼ばれているか、もっと自分にフィットする場所はないかと、居心地の悪さをずっと抱えたままの人もいる(私もそうだけど)。

苦労して自分にぴったりのラベルを見つけても、人にラベルをただ伝えるだけでは分かってもらえない場合が大半だ。

そうなると、これは完璧な方法ではないけれど、みんなが知っている人にラベルを託して、その人を通して自分を説明するという方法が出てくる。

それはヘドウィグかもしれないし、レスリー・チャンが演じた何かかもしれないし、もしかすると真澄ちゃんかもしれない。

もちろん、説明するのは他人に対してだけではない。

自分のような人はどんな風に生きていくべきか、どんな未来があるのか、自分を託す人を鏡に自分を写してみて、自分のあり方を見ることができる。(皮肉にも、メディアでの属性の扱われ方は大衆が属性をどう扱うかと重なる。でもこれはメディアを見る人たちが自分と違うものをどう扱うべきか学ぶからなんじゃないかな)

それなのに、自分の説明の仕方を学びたいこどもの多くが参考にするだろうメディアの中では、自分と似た人がひたすらバカにされたり、笑われたり、殺されたりしていて、そういう存在に自分を託すしかない、というのが長い間(少なくともアメリカのメディアでは)続いていた。

それが変わりつつある。いいことだ。

 

 

金曜はいい夜だったので、道路のへりに腰掛けて、友達といつまでも話していた。

私は塀に登ったり、料理をしたり、車に乗っている時に人と大切な話をするのが好きだ。

隣り合ったまま二人して前を向いたままのほうが言葉がスラスラ出てくるからだ。

自分について話すことが得意な人もいるけれど、私はすごく苦手で、長いこと苦しんできた。

自分のたとえになる人を見つけようとしていた時もあったけど、ついぞ見つからなかった。これからも見つからないと思う。

だけど今もふとした瞬間、スクリーンの中に、本の中に、テレビの中に探してしまう。

見つかってくれるなと思う。

正直、自分をうまく説明できないことがそのまんまの自分な気がしてきている。

 

これが今週の日記。



「自分の周りは静かだ」ということがなにを意味するのか、よくよく考えて泣きもしないしじま

A

疲れてしまうと閉じこもるのが好きな自分が勝つし、閉じこもってしまうと外の音がいやに耳につく。うるさくてしかたなくなる。みんなうるさくて、ほっといてほしくて、自分は1人でいるのにみんなうるさいくらい語れる共通の話題があって、それで繋がっていることがどうしようもなくきつくなる。こういう時の私は、感情を出すことに抵抗がなくて、ネットで手に入れた知識だけで知った顔をして大多数に向けて話す人間が大嫌いだ。適当に検索して持ってきた画像と動画で自尊心を満たす人たちのことが大嫌いだ。本当に、心の底から、嫌いだ。

むしろ羨ましいとさえ思う。完全に世間との関わりを失ってしまっている私に、みんな他人を思いやれ、自分ごととして捉えろと言う。
〇〇さんに賛同します、私もそう思います、みんなで団結しましょう。

あなたは誰なの?

あなたは、全ての、あらゆる事柄について、常に正しくて、完全に関係していて、話す権利があって、私にそれを強要できる人間なわけ?

昨日他人の容姿についてあれこれ言ったアカウントでよくそんな真似ができるね。

ひとをバカにしたストーリーのあとでよくそんなことが言えるね。

"それ"について語る自由があると言っておきながら、語らないやつをふるいにかけるような真似をして。

あなたは誰?

私にどうしろっての?こんなに1人でいるのに。
どこかに属せなかった私のせいだっていうの?

私には何かに所属したり、名前をつけられたり、あるいは種類分けされている部分に落ち着くことを断る自由はあっても、そのせいであなたたちと違う感覚をもってるのはだめなわけ?

 言っとくけど、私は人の持ち物やバックグラウンドやちょっとした癖で平凡さを見抜いて嫌ったりしないよ、あなたたちみたいに。よく知りもしないで平凡さを嫌うあなたたちみたいに。人の見た目でラベリングするなっていうくせに、自分が嫌いな”弱々しい”見た目の私の内面を勝手に決めつけてしまうあなたみたいに!

 集団の仲間になったり、誰かと繋がるためだけに思想を使ったり、そういうことはしなかった。ただ一人で耐えて、考えてきただけなのに。

他人のために怒るってどういうことなのか。人のために怒りを示すとはどういうことなのか。私にはわかる。友達や家族を守りたくて、何も考えず頭に血をのぼらせてしまった時のことを思い出す。

 

B

書いた時の感情を思い出せるようで、思い出せなかった。いま思い出してはいけなかった。

自分は1人でいることが好きだけど、孤独を感じやすい人間でもある。
だからこそ自分のことを好きでいてくれる人たちがいることもわかってる。

読み返してみると、この時の私の怒りは全然仲良くなくて、実際はどんな人なのかもしらないたった1人のアクティビストに向けられていることに気がついた。正直嫌いだ。

きっかけは向こうの何気ない無礼(でも上京してすぐの女の子を田舎者ってバカにしたり見た目で勝手にラベリングしたりするのは酷いんじゃないの?ジブリの女の子みたいだねって言われたんだよ、私。絶対にいい意味じゃなかった。浮世離れしてるってことなの?現実を生きてなさそうだとでも言いたいわけ?あなたの言う現実ってなんのこと?)だったかもしれないけど、人間は人生ですれ違う全ての人と関係を結べるわけじゃないし。

人間は完璧じゃないから。

人間は完璧じゃないから、自分の関心があることには一生懸命になれるけど、そこに私が入っているとは限らない。どれだけ高尚な考えを持っていても、それが私という存在の扱い方にまで適応されるわけじゃない。自分が相手に期待する対応をしてもらえるなんて馬鹿げてる。

きっと私もそういうことをしてる。絶対に、私の矛盾に傷ついた人がいる。

 この時はすごいブチギレてるけど、ある対象について語る権利は誰にあるのか、どう語るべきなのかはこれからも考えていく必要があると思ってる。

誰でも気軽に声をあげられる、自由に話せるということは素晴らしいことだけど、そのどこかにただ語られる対象として消費されてしまうものがあるような気がする。ある特定の層のためだけに好き勝手に使われてしまうものがある気がする。
誰が何について語るのか。大事なことだよ、私が何かについて語るためにも。人から言葉を奪わないためにも。語られるべき存在と語る存在の分断をなくすためにも。良くも悪くも、誰もが語れる時代だから。

 

 

 







週記(6.15~6.21)

・『スターリンの葬送協奏曲』
朝からとんでもなく天気が悪かった。低気圧でいかれた頭に染み渡るブラックコメディ。
 
・『マーゴットウェディング』
バームバックが描く家族はだいたい両親のどちらか(あるいはどちらも)が芸術家肌で子供を振り回しそのうち離婚する。またこれかよ!と思う人もいるかもしれないけど、ある対象について自分が語ったり、確実に誰かの傷とつながっている出来事を物語の装置にして作品を作る資格があるのか?となった時に躊躇してしまうから経験を元に家族の型を作ったのだとしたら、自分に一体何が扱えるのか考えてしまうタイプの人だよなあと思う。
バームバックは作品の中で家族をどんなに機能不全にしても、はたから見ればしょうもないというか、笑ってしまうようなやりとりを残したままにする。血のつながりとか絆とか、”家族”を表す手垢まみれで普遍的なクリシェではなくて、家族として生まれたゆえに共有せざるをえなかった私的な過去の時間を通してどうしてこの人たちはお互いを家族だと考えている(受け入れている、許している)のか、一緒に考えさせる。それが私の家族像と響き合うからつい見ちゃうのかも。今週末は実家に帰る。祖母のお見舞いに行く。
 
最近古い映画ばかり見ているなと思う。劇場に行けないからだ。これを見てる間にuplinkが訴訟されていた。
 
・『天井桟敷の人々(上)』
私は今まで映画館を映画館という場所としてしか見てこなかった。ぱっとしない映画館もあればいつもいい作品をやってる映画館もあった。uplinkは確実に後者だと感じていた、とここに書いておく。シネコンではやらない映画、ディスクが出てない映画をやってくれるいい映画館だった。
だから私は今回声をあげた人たちを本当に応援する。あの人たちはほんとうに映画が好きで、好きだからこそuplinkがどんな存在なのか知っている。働いている時、訴訟の準備をしている時、辛いと思うたびに映画が好きな自分も傷つけられた自分も裏切るような気持ちだったかもしれない。板挟みで頑張ってきた人たちを誰が責められるだろう。
気になったのは、声をあげた人たちがいたあとに「驚かない」とか「知ってた」という声が上がりはじめたことだ。それもそこそこの数。もしかして事情に気付けなかった私は「能天気」で「浅かった」のだろうか?
 
・『天井桟敷の人々(下)』
浅井隆はもともと天井桟敷という劇団で舞台監督をやっていた。主催の寺山修司は映画も作る人だったから(『書を捨てよ街に出よう』とか『田園に死す』とか。わたしは『草迷宮』が好き)寺山が死んで放逐された劇団員が配給会社を立ち上げてuplinkができた。劇団名の天井桟敷というのはフランス映画『天井桟敷の人々』からきている。
私がこの映画で特別に好きなのは出てくる人がみんなチャーミングなところだ。白黒映画は陰影で画面が作られるから、スクリーンに影ができるみたいに、人の顔のうえにまつげの影、しわの影、帽子の影、体を包む暗闇の一部が落ちてきて、その中に感情を見出したくなる。顔の造形よりも、造形が生む陰影に見るべきものがあるような気がしてくる。
 
とりあえず、寺山が死んでからあまりいいことがない。